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小布施日和

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チャプレンからのメッセージ

ところがまだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、 憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
ルカによる福音書 15:20

     

1815年10月のある日、75歳になったディーニュのミリエル司教の司教館を、ひとりの男が訪れます。 男の名はジャン・ヴァルジャン。

貧困に耐え切れず、たった1本のパンを盗んだ罪でトゥーロンの徒刑場で19年も服役していました。 行く先々で冷遇された彼を、司教は暖かく迎え入れます。

しかし、ある夜、司教が大切にしていた銀の食器をヴァルジャンは盗んでしまいます。 翌朝、彼を捕らえた憲兵に対して司教は「食器は私が与えたもの」だと告げて彼を放免させたうえに、 二本の銀の燭台をも彼に差し出します。
それまで人間不信と憎悪の塊であったヴァルジャンの魂は司教の信仰に打ち砕かれていきます。

1カ月ほど前に見た映画『レ・ミゼラブル』(Les Miserables)のこのシーンを、 ルカ福音書にある「放蕩息子のたとえ」を読んで思い出しました。 父親は、まだ遠く離れているのに、わがままの限りを尽くした息子を見つけて、 自分のはらわたがちぎれる思いで、走り寄って首を抱き、 接吻します(ルカによる福音書15:20)。 大切のことは、父親は、放蕩息子がまだ遠くにいて悔い改めているかいないかわからないときに、 放蕩息子に向かって走り寄っていくところにあります。この姿に、 神様の無条件の愛の姿があらわれています。 父親は、放蕩息子が悔い改めているという条件によって走り寄って行ったのではないということ、 神様からの愛は、私たちの悔い改めよりも先に立っているということが示されています。 そして、先の司教も、その後、ジャン・ヴァルジャンが悔い改めるかどうかの条件に関係なく、 ヴァルジャンを受け入れ愛します。ここにキリスト教の本質があると思います。

大斎節は、自分のことを振り返る時ですが、もし、神様が何か条件をつけて愛される神様であったら、 自分がその条件を満たしていると本当に言えるかどうか、「あの人よりはよい」とかではなく、 何をもって神様の愛を確信できるのかと思います。 けっして、神様は条件を付けて愛されるような方ではありません。イエス様はそのことを私たちに示すため、 この世に誕生しました。そして、私たちも赤ちゃんのときに無条件に愛され、無条件の愛を知っています。 だから、私たちの周りにいる人々を無条件で愛することが必ずできるのだと思います。