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2025.12.01
主よ、私の磐、私の贖い主、私の思いが、あなたの御心にかないますように アーメン
皆様、本日はこの逝去者記念礼拝にご参列いただき、心より感謝申し上げます。私たちは今日、病院という場所で、あるいは人生の様々な局面で、その生涯を終えられた全ての方々の尊い命を心に留めたいと思います。愛する人を失った悲しみや寂しさ、そして別れ際に交わされたかもしれない言葉の重みは、時間が経っても薄れることはありません。むしろ、季節が巡るたび、あるいはふとした瞬間に、その痛みは鋭く心に甦るものです。
悲しんでおられる皆様の上に、神様からの深い慰めがありますように、心からお祈り申し上げます。
私事で恐縮ではございますが、この4月に新生病院・新生礼拝堂のチャプレンとして派遣されました。私は病理学の仕事をしており、今も都立の病院でお許しを頂いて行っています 。
何年前になるでしょうか、私が病理診断の仕事をしておりますと、検査科の臨床検査技師が部屋へやってまいりました。どうしたのかなと思っていると、目を赤くして、明らかに泣いているのが分かりました。「先生、○○さんの診断覚えている?」と聞かれました。40代半ばで、進行性の癌の患者さんでしたので、よく覚えていました。その技師さんと患者さんは同じバレーボールチームの仲間とのことでした。すぐに、病室へお顔を見に行きました。
そこから、ほぼ毎日のように時間を見つけては病室へお伺いいたしました。ご家族のこと、これまでの歩みのこと、バレーボールのことなど、たくさんのお話をし、お母様、旦那さん、お子さんともお目にかかりました。治らなくても、家に戻りたいというのがご希望でした。主治医の外科の先生とも仲が良かったこともあり、患者さんのご希望やつらさのこともお話しすることが出来ました。
そして、患者さんは家に戻ることが出来ました。短い日数でしたが、家に戻り、ご家族と過ごすことが出来ました。最後はお家で倒れられ、病院へ戻られましたが、新たな歩みをされるのに時間は経ちませんでした。その日の夜に、ご自宅へお伺いしお参りをさせていただきました。その時に、旦那さんから、先生のことはいろいろと話を伺っていました。と、お声を掛けていただきました。病室へ伺ったときに、患者さんと旦那さんは末期の癌と知りながらも、いつもと変わらない会話をされ、時には笑い声も聞こえていたのを思い出しました。
それから数年後、当時の主治医の先生から電話がかかってきました。「江夏先生、先生のお知り合いの○○さんの息子さん、高校野球の予選会に出場していますよ。○○さん、お子さんの試合をいつも楽しみにしていましたよね。」
お子さんの試合のこと、お弁当を作って応援しに行かれていたお話しなど、その声、その表情が目に浮かび、私は不覚にも涙が溢れてしまいました。しばらく、涙が留まりませんでした。でも、以前のような冷たい涙ではありませんでした。温かな涙でした。
私はこの説教壇に立っておりますと、亡くなられた方を思い出します。「あの方はここに座っていたな」「あの方はよく外を見ていたな」いつも同じ場所で礼拝に参加されていたその姿、目に焼き付いています。
愛する方は、確かに生きているのです。神様のもとで過ごされていますが、わたしたちの中に生き続けているのです。ただ、忘れてしまうことで、始めてその方とお別れしてしまうことになるのではないでしょうか。
みなさんも、どうぞ泣いていいのですよ。それを我慢することはないのです。その涙には、その人との思い出が沢山詰まっているのです。その涙が温かくなるまで、一緒に居させてください。その働きが私の働きだと思っています。
ある詩に、このような一節があります。
『私は夢を見た。神様とともに渚を歩いていた。人生の最もつらく悲しい時、砂の上には一つの足跡しかなかった。私は神様にお尋ねした。「なぜ、最もあなたを必要とした時に、私を捨てられたのですか?」 すると神様はささやかれた。「私の大切な子よ、私はあなたを決して捨てたりはしない。足跡が一つだった時、私はあなたを背負って歩いていたのだ」』
そうです。私たちが悲しみのあまり立ち上がれない時、もう歩く力がないと、ただ涙を流すしかない時、私たちを背負い、その涙を拭って下さるのが、他でもない神様なのです。その神様のみ腕に、この世にある人、この世を去った人も抱かれつつ、委ねつつ、歩んでまいりたいと思います。
新たな歩みを始められた方の魂の平安と、遺されましたご家族の皆様に、神様からの癒しと慰めの手が差し伸べられますように、お祈り申し上げて、話を閉じたいと思います。
父と子と聖霊のみ名によって アーメン