新生病院グループとは

昭和初期、カナダの人々が日本の結核蔓延の窮状に対して我がことのように向き合い、お金を集め、人を派遣し信州小布施の地に新生療養所が設立され、医療事業(結核治療療養事業)が創められました。時代の経過の中で向かい合う疾病も変化し、組織形態も診療所が病院となり、法人格も宗教法人(教会やカナダの人々から支えられる病院)から医療法人(独立した地域の病院)へと変化してきました。

少子高齢化による社会構造と地域で生活をされていく住民の皆様の必要とされるサービスの多様化が進む中で、果たすべき機能に応じて「特定医療法人」「特定非営利活動法人(NPO法人)」と器を拡げ進化を模索しつつ現在にいたっております。

このようにして誕生してきた法人群が法的な独立性を遵守しながらも、事業に資金や人財を捧げてくださったカナダの人々やその意思を受け入れ育んでくださった小布施を始めとする地域の皆様の想いに立ち返りながら、それぞれの分野で独自性を維持しつつも協働する・・・・・。変わらぬ想いを守りながら時代にあわせた変化に向かい合う法人グループ、それが「新生病院グループ」です。

新生病院グループの歩み(年表)

1919年(大正8年) カナダ聖公会婦人宣教師が結核療養所建設に言及
1924年(大正13年) カナダ聖公会伝道局に対して在日宣教師団(カナダミッション)定例協議会より、結核療養所の開設とそのための
募金キャンペーンのアピールを正式に提出
1926年(大正15年) 日本聖公会中部教区のハミルトン主教が本国に帰国し直接説明
募金キャンペーンの許可が与えられる
1927年(昭和2年) カナダ聖公会の首座主教のアピールが出され募金活動が正式に開始される
1928年(昭和3年) R・K・スタート(以下、スタート博士)カナダオンタリオ州クイーンズ大学医学部を卒業し、ロンドン市クイーン・アレキサンドラ療養所に就職
結核及び胸部疾患研究開始
かねてより要請のあった日本における結核療養所への派遣を受諾する
1930年(昭和5年) カナダミッションの療養所建設委員ウォーラー司祭が中心となり候補地探しが進む
小布施村が候補地の一つとしてあげられ協議が開始される
スタート博士来日し軽井沢にて語学研修開始
1931年(昭和6年) 2年間にわたる候補地探しの末、小布施村に療養所設置が決定
この年までに募金目標とされていた25,000ドルが集まる
1932年(昭和7年) 小布施村池田文平村長に療養所建築申請書提出(1月)
建築着工(2月)
落成式 療養所開所(9月)
設立記念日を10月18日と定める
1934年(昭和9年) ミス・リリアス・パウル(以下ミスパウル)来日
新生礼拝堂竣工
順調な入院患者の増加が続く
1940年(昭和15年) 国際情勢悪化により、スタート博士他カナダ人スタッフ本国引き上げ
1941年(昭和16年) 太平洋戦争勃発
日本人職員の召集続出
1942年~1944年(昭和17年~19年) 診療所の他団体への移管等の圧力が複数生ずる
1945年(昭和20年) 太平洋戦争終戦
1946年(昭和21年) カナダ聖公会からの援助再開
1947年(昭和22年) ミスパウル他帰任
1948年(昭和23年) スタート博士来日 所長に再就任
*ストレプトマイシンを持参し、以後目覚ましい治療業績をあげる
1950年(昭和25年) 火災発生により本館2/3と厨房棟焼失
1951年(昭和26年) カナダ聖公会からの復興資金1,400万円、厚生省援助金400万円等により復旧
1953年(昭和28年) スタート博士任期満了にて帰国
1956年(昭和31年) 治療棟新築完成(経費1,052万円の大部分はカナダミッションからの援助)
1958年(昭和33年) 病床16床を一般病床へ転換(ここまでは全て結核病床)
1962年(昭和37年) 新生療養所の長野支所として新生クリニックを長野市内に開設
*潜在結核患者の発見と早期治療のため
1966年(昭和41年) ミスパウル定年退職にて帰国
1968年(昭和43年) 新生療養所から新生病院へ改称
1969年(昭和44年) 一般病院としての機能を強化し、高齢者患者の収容を開始
1970年(昭和45年) カナダ聖公会からの援助打ち切り
結核病院から一般内科(高齢者主体)の病院へと移行
1973年(昭和48年) 長野新生クリニック閉鎖
1978年(昭和53年) 結核病棟閉鎖
1980年(昭和55年) 新病棟建築資金捻出のため土地売却
1985年(昭和60年) 新病棟竣工
医療法人が設立され、宗教法人から事業移管
1986年(昭和61年)~ 地域と世界に開かれた病院として順次以下の事業を開始
  • ・病院施設を利用した入浴サービス事業
  • ・訪問診療、訪問看護事業
  • ・老人デイケア事業
  • ・地域のボランティア受け入れ促進
  • ・糖尿病教室
  • ・健康管理事業
  • ・ターミナルケア学習会
  • ・ホスピス病棟開設
  • ・救急指定病院、診療科の整備
  • ・オープンスペースメイプル開設
  • ・阪神淡路大震災被災地支援(医師、看護師派遣)
  • ・バングラデシュ、カンボジアへの医療協力
  • ・アジアからの研修生の受け入れ
  • ・外国人無料検診活動協力
2000年(平成12年) 介護保険制度開始に伴い介護事業展開
(訪問看護、居宅介護支援、介護療養病床、訪問リハビリ、通所リハビリ、居宅療養管理指導関係)
2002年(平成14年) 創立70周年を記念し「七十年史・新生」を発刊
2003年(平成15年) 法人格を医療法人から「特定医療法人」に変更
「新生礼拝堂」「ミスパウル記念館」が町宝に指定
2004年(平成16年) 病棟新改築工事着工
2006年(平成18年) 病棟新改築工事終了し新棟竣工
病床編成を一般病棟、回復期リハビリテーション病棟、療養病棟、緩和ケア病棟に変更し、この後の時代の医療機能分化に対応する体制を進める
訪問看護ステーション開設
法人事務局を設置し管理部門の機能強化を促進
2008年(平成20年) 株式会社メイプル設立 レストランメイプル、院内売店の運営を受託する
2011年(平成23年) 中野市に訪問看護ステーションサテライトを開設
2012年(平成24年) 創立80周年を記念し「新生 小布施 新生病院 八十年の歩み」を発刊
カナダ聖公会 フレッド・ヒルツ大主教 来訪
2015年(平成27年) 「特定非営利活動法人パウル会(以下NPO法人パウル会)」を設立
「特定医療法人新生病院」から「NPO法人パウル会」に「訪問看護ステーション希望」「居宅介護支援事業所かえで」が移管される
2016年(平成28年)
  • ・須坂ケアセンターを開設[NPO法人パウル会]
  • ・「特定非営利活動法人ワンダイム(以下NPO法人ワンダイム)」を設立
  • ・ワンダイムとして初めてバングラデシュに医師派遣[NPO法人ワンダイム]
    *以降NPO法人ワンダイムが主体となり海外派遣活動を展開
  • ・東日本大震災被災地病院に医師支援派遣(土日診療支援)[NPO法人ワンダイム]
2017年(平成29年)
  • ・ワンダイムとして初めてバングラデシュより医師1名の研修受け入れ[NPO法人ワンダイム]
  • ・ネパールに初めて医師派遣[NPO法人ワンダイム]
2018年(平成30年) 新生病院隣に小布施ケアセンターを開設[NPO法人パウル会]
既存事業に加え看護小規模多機能型居宅介護施設(小布施町委託)等を開設[NPO法人パウル会]
2020年(令和2年) 訪問看護ステーションほくしんサテライト事務所を中野市吉田に移転し中野ケアセンター化[NPO法人パウル会]
2022年(令和4年) 中野市豊田地区に移動販売車による買い物支援サービス開始[株式会社メイプル]

新生病院グループの歩み(詳細)

① 新生療養所 誕生にいたるまで

新生療養所誕生前夜の日本

昭和初期、日本国内で結核が猛威を振るい、将来の日本を背負っていく若い命が次々に失われていきました。当時結核は「亡国病」と呼ばれ、日本政府や医療界の力だけではどうにも対処が行き届かない状況があったようです。

集められたたくさんの「心ある善意」

そのような日本の窮状は、日本の中部地方で宣教活動をしていたカナダの宣教師たちから本国に伝えられ、大きなミッションのうねりとなっていきます。
「100分の1の仕事(日本全国の結核患者すべてを救済することはできないが)でも我々のなすべき義務である」・・・・・、困っている日本の人たちの必要を満たすために大人から子供まで多くのカナダの人々が自身の大切なお金を献金し、日本に結核療養所を建設し、そこで働く医療者を派遣すべく力をあわせました。募金目標として建設費2万5千ドル、維持費に年間3千ドルを3年間(合計3万4千ドル)で集められることとなりました。
教会の日曜学校に通う子供たちが、自分の欲しいものを我慢して貯めたワンダイム銀貨をピカピカに磨きお捧げしたことが様々な記録に残されています。一つひとつは小さいけれど、たくさんの尊い善意が大きく結集し結実したもの、それが新生療養所でした。

結核療養所を受け入れた小布施町

当事結核が忌み嫌われる時代にあって、34番目の候補地(33番目までは結局どこも受け入れてくれず)としてカナダの人々の熱意を理解し、開設を受け入れてくれたのが小布施村(現小布施町)でありました。もちろん小布施村内にも結核療養所の小布施誘致に反対する声はありましたが、当時の池田文平村長の強いリーダーシップにより療養所開設の一大事業は動き始めました。

カナダから集まった心ある働き人

日本の窮状に心を痛め、直接自身での奉仕を志す若者達がおりました。
設立時に着任されたスタート博士、初代看護師長のミスブッチャー、教師を辞めて日本での結核看護を目指した二代目看護師長のミスパウル、看護師のミスエリオット、ミスフォステル、そして終戦直後の大変な状況下に来日した看護師のミスベンズ。
また、すでに日本で宣教の働きに励んでいた宣教師たちも療養所開設のために奔走することとなりました。どのスタッフも司祭も愛情と信仰と豊かな人間性に満ちた立派な人財でした。気高い志をもった人間・・・・、そして私たちと同じ人としての弱さや痛みをも持った生身の人間・・・・、その人たちを突き動かしたものは何だったのでしょうか。

② 始められた献身的な働きと順調な運営

このようなカナダの人々の想いが結実し1932年(昭和7年)、新生病院の前身である新生療養所がその歩みを始めました。

世界中から集まる最新の備品

開設にあたって当地域では類を見ない巨大なボイラーが設置されるとともに、イギリスからのベッド、アメリカからのレントゲンを始めとした最新の備品類が搬入され、療養所ではさながらクリスマスのプレゼントの包みを開くように歓喜に満ちてそれらを受け取った様子が伝えられています。

最新の結核治療の実践で全国から患者が集まる

当事、結核の治療は「大気」「栄養」「安静」が三原則と言われていました。
新生療養所ではこの三原則を順守するとともに、「横隔膜神経切除術」と「人工気胸」を併用した治療が行われていたので相当の治療効果を上げていました。この治療効果を聞き、かなりの遠隔の地から入所の希望がありました。開設当初用意された50床は間もなく一杯になり数年後には別館病棟が新築され85床を数えるところとなりましたが、その病床もまもなく満床となりました。

カナダ聖公会が支えた救済を旨とした医療

医療保険の全くなかった当時は、財産を食いつぶすような形で療養生活をしなければならない患者さんが大方であったようです。カナダミッションは病院の運営の条文に「入院患者の三分の一を全て施療(無料)とする」記載を加えてその事業を始めました。
この規定は1937年(昭和12年)の日中戦争勃発時まで遵守され、その経費の大半はカナダ聖公会から提供されていました。

③ 戦争による大きな困難

失われていくスタッフ

設立後、順調な働きを続けていた新生療養所は、近づく戦争の足音とともに運営がむずかしくなっていきました。
1940年(昭和15年)には国際情勢悪化により、スタート博士他カナダ人スタッフは、本国へ引き上げざるを得ない状況に陥り、日本人職員だけでの運営が始まりました。
運営に必要な資金や物資をカナダ聖公会からの援助を前提にして運営されていた療養所は大きな窮地に陥ることとなりました。1941年(昭和16年)に太平洋戦争がはじまり、残された日本人スタッフにも軍への召集が相次ぎ、運営の困難さはさらに加速するところとなりました。

他の団体などへの接収や移管の圧力

運営能力が極端にそぎ落とされた新生療養所には、政府の意向を受けた大病院や県への全財産を移管する圧力を伴った打診が複数件あったことが記録されています。
医療機関としての他の団体への移管に留まらず、軍の「青少年錬成育成道場」として供することまで可否を問われるような状況であったようです。
何とか自主独立した運営は維持し続けて終戦を迎えましたが、終戦の直前には別館全体を士官の療養施設として強制的に海軍に占有される状況に至ってしまいました。

④ 戦争と火災を乗り越えて隆盛の時代へ

戻ってきたカナダ人スタッフ

終戦の翌年には、カナダ聖公会からの物資の援助が再開されました。予告なしに進駐軍を通じて8,000ポンド分の食料(バター、ミルク、コンビーフなど)が贈られてきた記録も残されています。物資などの援助再開からさらに1年後の1947年(昭和22年)には、ミスパウルやその他の宣教師たちが小布施の地に戻ってきました。この復帰も事前の予告なしであったとのことで、日本国内の混乱が収拾していない大変な状況であったことと、ミスパウルや宣教師たちが急いで戻ったことを推測させる出来事でした。

新しい治療をたずさえてスタート博士が復帰

1948年(昭和23年)にはスタート博士が復帰し院長に再度就任することとなりました。カナダより「ストレプトマイシン」を持ち帰るとともに「胸隔形成術」を開始し、結核に対する治療成績が飛躍的に向上することとなりました。

新しい受難と再建

カナダ人スタッフの復帰や新しい治療手段が開始されたこともあり、順調な復興が進んでいた1950年(昭和25年)、火災が発生し本館2/3と厨房棟の全てが焼失してしまいました。
火災現場の跡片付けには多くの町民が参加し、困難な時をともに支えました。
すぐに療養所再建の意思決定が理事会でもなされ、スタート博士自ら募金集めのためにカナダへ向かいました。カナダミッションから1,400万円、厚生省の援助金の400万円も含めて資金集めが進み、翌1951年(昭和26年)には建物の再建と平常運営の復旧にこぎつけました。

スタート博士の退任

1953年(昭和28年)、スタート博士が任期満了にて帰国されました。退任間際は日本社会の中でもその学識が高く評価され、慈恵会医科大学の講師を兼任されつつ新生療養所で行われていた進んだ治療技術を日本社会に広げていくことにも尽力されました。 慈恵会医科大学からの報酬は「個人で受け取るべきものではない」とそのすべてを療養所に託していきました(後にレントゲン機器購入の資金の一部となる)。
穏やかな人柄とともに自己に厳しく公私の区別のけじめをつけるスタート博士らしい判断を最後まで続けられました。

教育面の社会的貢献と治療棟の新築完成

この頃までには、結核治療や看護管理を学ぶため多くの医療者が全国から研修や見学に訪れるようになっていました。1956年(昭和31年)にはスタート博士が在職時から計画されていた治療棟が新築完成となりました。
経費1,052万円の大部分はカナダミッションからの援助により賄われました。
新生療養所の隆盛期といえる時代だったのかもしれません。

⑤ 結核の時代の終焉とカナダ聖公会からの自立

結核患者の減少と病床の削減

戦後、様々な治療法の出現や進化、そして栄養状態の改善により時間の経過とともに結核患者の数は減少へと転じていきました。
結核という病に対して向かい合ってきた新生療養所の使命について、結核そのものの社会からの減少により再考を余儀なくされる状況が徐々にではありますが大きくなっていきました。
療養所においては一部の病棟を一般病棟に転換し次の時代を見出すための取り組みが始まりました。潜在的結核患者の発見と早期治療のためのクリニックを長野市内に開所したのもこの頃の事でした。

ミスパウルの定年退職とミッションの撤退

療養所設立の2年後に来日、その翌年から総婦長をつとめていたミスパウルが定年を迎え帰国となりました。絶対的な存在感と信念で療養所を支え続けた精神的支柱がまた一人、結核患者の全国的減少と時を同じくして療養所を去っていかれました。
1970年(昭和45年)にはカナダ聖公会からの人的、資金的援助が終了となり、これからの療養所のあり方について大きな変化を療養所自身が考え、変化に対応していくことが必須な状況となりました。

療養所から病院へ、結核治療からあたらしい使命の模索

1968年(昭和43年)には新生療養所から新生病院へと改称が行われました。
「結核の療養を行う施設」から「結核以外の患者さんを中心に治療を行う病院」へのあり方の変化が明確に始まりました。これに伴い、長野市内に結核患者の早期発見と早期治療の目的で設置されたクリニックも閉鎖されました。1978年(昭和53年)には結核病棟が閉鎖され、名実ともに創立以来の新生療養所の使命であった結核との闘いが終焉となり新しい使命の模索が急務となりました。

⑥ 結核の病院から地域密着型の医療機関へ

医療法人としての独立と新病棟の竣工

経済的に自立した運営を続けていくことが必須の状況となり、1985年(昭和60年)宗教法人が開設運営していた病院事業を新しく設立した医療法人に移管しました。
老朽化した結核病棟が新しい病棟に立て替えられ、先ずは高齢者を中心とした入院患者の入院治療が精力的に行われることとなりました。そこから順次、現在の新生病院グループの主要事業の数々の取り組みが始められました。

地域に必要な診療科の整備

高齢者の医療需要に応えるための内科を基幹として、近隣の大病院との役割分担をふまえながら、外科、整形外科、小児科、口腔外科、皮膚科、麻酔科等の常勤医師も順次増員されていきました。決して医師が潤沢に在籍していた状況を経過してきたわけではありませんが、着実に高齢者のみならず地域の若年層の医療需要に応えられる体制整備が進められていきました。
また、1988年(昭和63年)には健診業務(町民健診)にも取り組みを拡げ健康管理部門の充実も進めていくことになりました。
これらの動きに伴い、CTスキャナやMRIを始めとした画像検査機器や様々な検査機器の整備も順次進められていきます。

緩和ケアへの取り組み

日本のホスピスムーブメントがまだ創生期であった当時、いち早く「ターミナルケア勉強会」が開始され、臨床現場でケアにあたるスタッフ自らが看取りについての学びを始めました。
勉強会からスタートした取り組みが、多くの患者さんの看取りの実践を通して成熟し、1997年(平成9年)には長野県で一番早い緩和ケア病棟の開設認可に至りました。開設にあたっては国内の先進的医療機関の取り組みのみならず、イギリスやオーストラリアをはじめとした海外のホスピスにも医師や看護師を研修派遣して新しい事業に向かい合いました。

在宅医療への取り組み

「住み慣れた環境で人生の最後の大切な時間を家族とともに過ごしていただく。ご本人とご家族が望まれれば看取りは自宅で」そんなことが普通にできる地域になっていくために病院が出来ることはないだろうか・・・・そんな想いが職員の中で共有されながら、1986年(昭和61年)から訪問診療や訪問看護が少しずつ始められ、将来に向けての取り組みが進められていきました。

介護時代の到来に向けた取り組み

ご家庭で介護を続けていただくために、病院で提供できる取り組みも順次拡大されていきました。病院の特殊浴槽装置を開放した「入浴サービス」の提供、「老人デイケア」開設、「家庭介護講座」の開講、小布施町開設の「デイホーム」の受託など、2000年(平成12年)に創設される介護保険サービスの基盤となる取り組みを順次始めていきました。

ボランティア

提供する医療の内容を充実させていく一方で、患者さんに必要な療養環境を創造していくパートナーとしてのボランティアの育成や医療現場への参画も積極的に進められていきました。ボランティア講座の開催を繰り返しながら、「傾聴ボランティア」「生け花ボランティア」「環境(庭園)整備ボランティア」「朗読ボランティア」「外来患者サポートボランティア」その他多数のボランティアが誕生することとなりました。

海外医療協力、被災地医療支援

「カナダから助けられた私たち」が、たとえ少しずつでもできることをお返ししていく取り組みを始めました。「バングラデシュへのワーカー直接短期派遣」「カンボジアへのワーカー長期派遣支援」、アジアからの研修生(医師、看護師、リハビリスタッフなど)の受け入れ等の実績が積み重ねられました。
また、地域で暮らす外国人労働者の健康を守っていくために他のボランティア団体と協力し無料検診を定期的に開催する取り組みも繰り返されました。
阪神淡路大震災の際には医療スタッフを派遣する等被災地支援にも着手し、病院が所在している地域以外の住民への支援にも取り組みが行われました。

オープンスペースの運営

地域住民と職員の交流をはかる場所として「オープンスペースメイプル」が病院玄関前に建設され、食事や喫茶の空間を共有するスペースが確保されました。結核療養所時代には疾病の特性上からも地域との交流は困難な状態が続いていましたが、このような場所づくりやチャペルを会場としたコンサートの開催などを積極的に行う事により、地域住民に病院を開放していく取り組みが増えていきました。

⑦公益性をさらに増しながら、地域の医療機関の中での機能分化への取り組み

医療法人から特定医療法人へ

カナダの心ある人々の寄附によって新生療養所が開設され、その事業や資産を受け継いだ医療法人は、2003年(平成15年)、その公益性が認められ「特定医療法人(持分の定めがなく、かつ事業が医療の普及や向上、社会福祉への貢献、その他公益の増進に著しく寄与し、かつ公的に運営されていることにつき、一定の要件を満たすものとして、国税庁長官の認証を受けた医療法人)」の法人格を得ました。
私的な医療機関であることに変わりはありませんが、公的な役割を担う責任と社会的な認知が名実ともに大きくなる契機となりました。

療養所時代の建物が地域のランドマークの一部に

療養所時代に建設された「新生礼拝堂」「ミスパウル記念館」が新生療養所に愛着をもってくださる町民の熱心な推薦活動により小布施町の町宝に指定されました。
病院にとっては設立当初の「想い」に立ち返る場所であり、地域の住民や観光客にとっては「かつての新生療養所」と出会う場所として末永く大切に保存されることとなりました。

地域に支えられた新しい医療の器づくり

療養所から一般病院へと大きな方針変換を行いながらその歩みを進めてきた新生病院がさらに大きな変革をすすめ、地域の必要に応えていくためには、老朽化が進んだ既存の建物や設備では困難な状況が散見される状況に至りました。
2004年(平成16年)から2006年(平成18年)にかけて既存病棟の改築と新設病棟の新築工事が行われることとなりました。かつてカナダの人々に物心両面の支援を受け、この地に誕生し成長してきた新生病院ですが、この工事では小布施町を中心とする地域住民に支えられ、このあとのさらなる成長に踏み出すこととなりました。
小布施町、須坂市、高山村、中野市、長野市など行政からの補助金、そして小布施町においては各自治会により住民からの直接的な資金援助が「寄付」という形で寄せられ善意に満ちた資金が集められました。

機能分化が明確に進んだ病棟編成

改築新築された病棟は病棟編成を新たにし、四つの機能に明確に分化され、将来の超高齢化社会において新生病院の果たす役割が内外に判りやすい形態がとられました。 「一般病棟36床(急性期病院と役割分担をしながら内科や整形外科の急性期疾患に対応する)」「回復期リハビリテーション病棟40床」「療養病棟59床」「緩和ケア病棟20床」と、地域の他の病院より速いスピードで進む方向性の舵がきられました。

進む在宅医療

少子高齢化の流れが加速していく中、医療や介護の制度改革もそのスピードを増し、病院は「治療」及び「限定された一定期間の療養」の役割に限定して患者さんが留まる場所となりました。
高齢者や慢性的な重度の療養が必要な患者さんの長期の療養や看取りは、大多数が在宅(自宅或いは自宅に準ずる場所)に移行してくる時代が到来しています。
新生病院は訪問診療や往診などこの分野での地域へのさらなる貢献を目指して在宅医療の推進に努めています。

⑧未来に向けての対応と理念実現のためのグループ法人化

自宅での生活を続けていただくために、今そしてこれから必要なもの

「年齢を重ねても住み慣れた地域で生活を続け、普段の生活の中で看取りの時を迎える」・・・・そのような趣旨で進められている医療介護などの制度改革ですが、核家族化が進んだ現在、そして老々介護がますます進む将来においては、既存の在宅医療や訪問看護、そして様々な介護保険サービスのみでは、高齢者の生活そのものを支えることがむずかしくなってきています。
自宅などで医療を提供し続けていくには、その患者さんの「生活」が成り立たっていることが前提となりますが、「食事」「住まい」「買い物」また「お亡くなりになった後の対応」など、公的な制度では賄いきれない様々な要素が拡大してきています。

地域の一員として協力しあいつつ

新生病院のみで、当地域の高齢者の在宅医療や地域での生活をお支えすることは不可能です。
地域にはたくさんの志豊かな団体様や個人様が、熱心に高齢者やお困りの方々の支援をされるべく、日夜取り組みを続けられています。そんな皆様と協力し合いながら、地域社会に最善の体制を育てていくことが新生病院の務めと考えます。
しかしそのような努力を続けつつも、今後はそれでも埋めきれない社会的機能について、私たちのできる範囲には留まってしまいますが、できる取り組みを進めていきます。

特定医療法人単独ではできない仕事をグループ化で進める

新生病院(特定医療法人)は基本的に、医療を提供することを旨として存在しています。
介護、福祉、生活の社会的支援の不足について、全てを病院単独でお手伝いしていくことは困難なことと認識しました。
そこで「看護・介護・福祉・生活支援:NPO法人パウル会」「社会的な活動の場(仲間づくり含め)の提供:NPO法人ワンダイム」のそれぞれの分野について、独立した法人を設立することで、これからの地域にいて生じてくる様々な必要に応えていくこととなりました。
またNPO法人ワンダイムは海外において医療や様々な支援を必要とされている方々、また日本国内においても災害に被災された方々に対する働きを続けていく役割も担っています。

地域社会にそして世界に・・・創設者たちにならって

私たちのできることには限りがあります。地域においても(世界レベルにおいてはなおさら)視野を広げれば広げるほど、私たちのできることは小さな働きでしかありません。
私たちはこの事業体の創設者たちが100年以上前に世界の東の果ての国で起こっている結核の窮状を知ったときに「100分の1の仕事(日本全国の結核患者すべてを救済することはできないが)でも我々のなすべき義務である」と心に志を刻んだように、地域社会に目を向けて、そして世界へ目を向けてその尊い想いを絶やさないように、未来に進んでいきたいと願っています。

ダーウィンの進化論+α
(+αは私たちの追加アレンジです)
最も強い者が生き残るのではなく、
最も賢い者が生き延びるのでもない。
唯一生き残るのは、変化できる者である。
ただし、「変えてはいけないもの」を守りながら・・・・。(+α)

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