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小布施日和

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チャプレンからのメッセージ

天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。
マタイによる福音書 13:44

     

 イエスさまは、この天国について語られるとき「天国とは何か」と言って、定義したり、 抽象的な言葉で説明したり、哲学的な言葉を使って論理をまくしたてて、 説得して「わかったか」といわせるような話し方はなさっておられません。 イエスさまの話を聴いている群衆にわかりやすいように、小さな子供たちにもわかるようなお話、 「たとえ」として語っておられます。日常の生活の中のどこにでもあるような材料を取り上げて話しておられます。 と祈るように教えてくださいました。

上記の聖書の最初の一行は「畑に宝が隠されている」で始まり、 「見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」と続きます。 「畑に宝が隠されている」とは、最初からもう宝があるということがはっきり示されています。 これは、本当の「神の手」のわざです。神の手が埋めた物ですから、本当に価値のある本物の宝です。 言うなれば神の愛そのものと言っていいような宝が始めから埋められています。 重要なことは足もとに確かにあるのに私たちは気づいていないということです。 神様はもしかすると私たちに「捜す喜び」「見つける喜び」を下さったのかも知れません。
そして探し当て、壺の中を開けてみると「神様が愛しているあなた自身が宝である」 そう書いてあるんじゃないでしょうか。掘り出された宝とは私自身なのです。 埋まっていたのは私であり、宝さがしとは、自分自身を捜しているのかも知れません。 私が神様にとって宝があり、その「私自身が宝だ」、それに気づくこと、 それを信じることがその人の宝さがしの究極の目的であると思います。 もし見つけたらもう「今まで貯めてきたお金だとか、名誉だとか仕事の成果とか、 全部投げ捨てても手に入れたい」そう思えるような「宝」=「神様から無条件に愛されている私」 がわたしたちのうちにあると確信することができると思います。 「この世界は素晴らしい、この私には価値ある、今は辛くとも明日は必ず宝が手に入る」 このことを信頼していきたいと思います。

<新生礼拝堂牧師 司祭 ヨセフ石田雅嗣>